column


【第49回/自称弟子からの追悼文】

私の、ピアノの「師匠」と言える方が亡くなりました。
もっとも、「師匠」と思っているのは私だけで、その方は私のことを「弟子」とは思っていないはずです。

出会ったのは30年以上前。
私がまだ、20歳になる前だったと思います。
そこから10年あまり、とても深いお付き合いをさせて頂きました。

当時の私は、ベーシストとしてのお仕事を少しずつ頂けるようになった頃です。
行く先々のお店で出会うピアニストやボーカリストたちとは、その日その時だけの演奏をして、閉店したらパッとお別れします。
新米ベーシストとしては、今日の演奏が果たして良かったのか悪かったのか、とても気になるのですが、勿論何かコメントしてくれる訳ではありません。
私にとって、遙か年上のピアニストたちは、恐い存在でもありました。

「師匠」もその中の一人で、私のベースについては何も興味を示してくれません。
ただ、他のピアニストと違っていたのは、仕事が終わった後パッとお別れせず、沢山お話をしてくれたことです。

最初、音楽の話はほとんどしませんでした。
その時の私は、ピアニストとお話出来ること…そのことが嬉しくてたまらなかったため、すっかり「聞き上手」になりました。
ミュージシャンですから、話が弾めば当然音楽の話にもなります。
「師匠」独特の音楽哲学を沢山聞かせて頂き、この時、私の思考回路の土台が形成されたと思っています。

天才肌の人で、ピアノはすべて独学。
その上譜面にもとても強い人で、音符の苦手な同業者を尻目に、作曲や編曲の仕事も相当数こなしていました。
その度にお声を掛けて頂き、徐々に「師匠」の御用達ベーシストになって行きます。
このような過程で、当初から作曲に興味があった私は、「師匠」の音楽の作り方を文字通り間近で体験することが出来ました。

ヤマハの教材作りをしていた「師匠」は、当時、御茶ノ水の宮地楽器でジャズ・ピアノ・クラスを持っていました。
私はそこでも、度々ベースを弾かせて頂きました。
その時に、「師匠」のジャズ・ピアノ・メソッドを相当勉強させて頂きました。
レッスン代も払わないどころか、ベーシストとしてのギャラを頂きながら学ぶという不届き者でした。

私が、ピアノで仕事をするようになった頃からは、疎遠になっていきました。
アル中の症状が酷くなっている話を耳にしました。
私が足繁く通った成増のご自宅は、売却されたと伺いました。
そう言えば、この世は仮の住まいだ…ということをよく口にされていました。

一切のしがらみを嫌う正に自由な人で、次にどうするのか何をやるのか、全く読めない人でした。
比較して自分は何とも型にはまった男だ…と、器の小ささを情けなく思います。
「師匠」と出会っていなければ、私の人生は大きく変わっていたことは間違いありません。
八幡邦俊さん、本当にお世話になりました。
そして、有難うございました。
どうぞ、安らかにお眠りください。

2014/09/15 杜哲也


《homeに戻る》