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【第86回/コードネーム】

007の話ではありません。
軽音楽で使われる和音記号のことです。
これを使う音楽と使わない音楽は、私にとって多くの面で異なる存在です。

言うならば、音楽を学ぶ時にはその曖昧さが厭わしく、音楽をやる時にはその自由さが愛おしい…私にとってはそんな存在です。

コードネーム(=暗号)を読める、知っている、理解している…と言う時、様々な段階があります。
Dm7がレファラドである…ということは、コードネーム解読の単なる第一段階。
全12音の内、残る8音についても、実はそこに明確に提示されています。
いちいち指図されるのが嫌で、自分でやりたいッ…と思っている人たちにとっては、実に自由の利く台本となって、思いもよらない音楽を生み出します。

しかし、五線紙に書かれた音符を読み取ることで音楽を作る人にとっては、無用の長物。
このことは、音楽を作曲優位で捉えるか、演奏優位で捉えるか、ということにも繋がります。
トップダウンかボトムアップか、と言っても良いでしょう。
コードネームは大衆の文化であり、貴族には馴染まないのです。

このことは、表記の不統一にも露呈されています。
例えば、メージャーセブンスというコードネームは、出版社や編曲者によって少なくとも3~4種類が混在していて統一される見込みはありません。
天下統一を果たして号令をかける、そんなことを考える人はいないのです。

そもそも私は、作曲した人が全演奏者の発する音を最初から最後まで全て指定することには抵抗がありました。
そんなのは、私にとって音楽ではなく修行。(…修行も大切ですが。)

例外はバッハ。
これだけは、代用の音符がなかなか見つかりません。
そして、もし代用が利く部分があればそこは当時の記号で賄われており、実際に音符が書かれていないのです。
後世の人が勝手に書いた音符で出版されているものはありますが、本人は書いてません。

言うなればコードネームは、曖昧でいい加減な奴。
でも、やる時はしっかりと自分の仕事をこなします。
そして、権威や権力にこびることなく、人生を楽しんでいます。
こんな、人間味溢れる存在、コードネームに乾杯。

→2017/10/18 杜哲也


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