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【第95回/死刑制度は嫌いです】

オウム真理教事件の死刑囚7人について、刑が執行されました。

ネット上の感想を読むと多くは肯定的で、特に、辛い判断を下した法務大臣に対しては、よくやった、お疲れ様、という空気を感じます。
私は、大臣に対しては勿論ですが、実際に刑を実行した刑務官の皆さんこそ、苦しいご経験だったと想像します。
こんなお仕事を、淡々と出来るような人はいないでしょう。

死んでしまいたい、という言葉があります。
私は、死刑制度は、その判決を受けた人たちに対して、この言葉の手助けをしている感じがします。
死は、残された人たちの側にこそ、厳然と存在し続けます。
この世の出演者リストから外された犯罪者たちには、その瞬間から痛くも痒くもない時間が待っており、お疲れ様、お先に、というだけのこと。

死刑とは、長期間にわたって専門家の皆さんが討議を重ねた結果、「消えなさい」ということでしょう。
消えてしまいたい、という人にとっては、願ったり叶ったり。

音楽は、始まり方と終わり方が命です。
それを人為的に作るのが作曲ですが、命の始まりと終わりは神に委ねたいのです。
生と死だけは、そこに可能な限り人為的な手が加わらない、崇高なものであって欲しいのです。

例えば、山口県光市母子殺人、池田小学校児童殺傷、秋葉原無差別テロ、相模原障害者施設大量殺人、…などなど、これらの事件を起こした人たちをどう裁くか。
それは死刑ではない、そんな気がしました。

==================== 2018/07/07 杜哲也


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